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緒方洪庵全集第四巻

日記 書状(その一)

適塾記念会緒方洪庵全集編集委員会橋本孝成村田路人 編集

紙 版

本書では緒方洪庵の日記3点(「癸丑年中日次之記」「壬戌旅行日記」「勤仕向日記」)と書状69通(箕作秋平宛)を収録する。
日記 「癸丑年中日次之記」の書かれた1853年は、日本は外圧と開国にゆれる時代の中にあり、43歳の洪庵は日常生活の中に世情の不安も記している。記載された多くの人名により家族・親類の交流や大阪の医師名前、洪庵の医師活動がよくわかる。また、和歌を趣味とした洪庵の人脈も知られ、もちろん適塾の門下生の名も多く適塾での日常生活が具体的にうかがわれる。
「壬戌旅行日記」は52歳のとき大阪から中国・四国旅行の記録である。これは単なる旅行記ではなく、江戸行く覚悟を決めた洪庵の人々との決別の意図が強く感じられる。
「勤仕向日記」は洪庵が江戸幕府奥医師としての勤務日記である。転換期の幕府の中にあって洪庵は定例の診察や当直を勤め、病気がちの将軍家茂の診察や天璋院を多く診察したこと、和宮が麻疹のとき1度だけ診察ことなどが記されてる。いずれにしても城内での激務がわかる。
書状 洪庵は生涯のうちに多くの書状をしたためた。門下生、箕作秋坪に送られた69通は最多である。内容としては洪庵の主著『扶氏経験遺訓』の出版に関してのことが多い。ほかに外交情報や蘭書の入手について江戸にいる秋平に問い合わせている。またコレラなど疫病の流行について大阪や各地の状況を交換している。
本書では、カナ混じり原文に加えて現在ではわかりにくい語彙には注をほどこし、全体について橋本孝成・村田路人が解説する。なお、書状は本巻に引き続き第5巻にも掲載して完結する予定である。

出版年月2016年03月01日
ISBN978-4-87259-513-0 C3321
判型・頁数 A5判・314ページ
定価本体10,000円(税込11,000円)
在庫在庫あり
内容紹介
目 次
著者略歴

本書では緒方洪庵の日記3点(「癸丑年中日次之記」「壬戌旅行日記」「勤仕向日記」)と書状69通(箕作秋平宛)を収録する。
日記 「癸丑年中日次之記」の書かれた1853年は、日本は外圧と開国にゆれる時代の中にあり、43歳の洪庵は日常生活の中に世情の不安も記している。記載された多くの人名により家族・親類の交流や大阪の医師名前、洪庵の医師活動がよくわかる。また、和歌を趣味とした洪庵の人脈も知られ、もちろん適塾の門下生の名も多く適塾での日常生活が具体的にうかがわれる。
「壬戌旅行日記」は52歳のとき大阪から中国・四国旅行の記録である。これは単なる旅行記ではなく、江戸行く覚悟を決めた洪庵の人々との決別の意図が強く感じられる。
「勤仕向日記」は洪庵が江戸幕府奥医師としての勤務日記である。転換期の幕府の中にあって洪庵は定例の診察や当直を勤め、病気がちの将軍家茂の診察や天璋院を多く診察したこと、和宮が麻疹のとき1度だけ診察ことなどが記されてる。いずれにしても城内での激務がわかる。
書状 洪庵は生涯のうちに多くの書状をしたためた。門下生、箕作秋坪に送られた69通は最多である。内容としては洪庵の主著『扶氏経験遺訓』の出版に関してのことが多い。ほかに外交情報や蘭書の入手について江戸にいる秋平に問い合わせている。またコレラなど疫病の流行について大阪や各地の状況を交換している。
本書では、カナ混じり原文に加えて現在ではわかりにくい語彙には注をほどこし、全体について橋本孝成・村田路人が解説する。なお、書状は本巻に引き続き第5巻にも掲載して完結する予定である。

凡例   
日 記   

癸丑年中日次之記
壬戌旅行日記
勤仕向日記
【解説】緒方洪庵の日記とその背景

書状[1]箕作秋坪宛
一  安政元年(一八五四)十二月十一日付
二  安政二年(一八五五)正月十一日付
三  安政二年(一八五五)二月七日付
四  安政二年(一八五五)八月七日付
五  安政二年(一八五五)十一月四日付
六  安政三年(一八五六)正月二十一日付
七  安政三年(一八五六)五月十七日付
八  安政三年(一八五六)九月七日付
九  安政三年(一八五六)十二月十八日付
一○ 安政四年(一八五七)正月八日付
一一 安政四年(一八五七)二月九日付
一二 安政四年(一八五七)二月十一日付
一三 安政四年(一八五七)二月十四日付(二点)
一四 安政四年(一八五七)二月二十一日付
一五 安政四年(一八五七)四月十一日付
一六 安政四年(一八五七)五月二十四日付
一七 安政四年(一八五七)閏五月十二日付
一八 安政四年(一八五七)六月九日付
一九 安政四年(一八五七)六月二十七日付
二○ 安政四年(一八五七)七月二十日付
二一 安政四年(一八五七)八月三日付(二点)
二二 安政四年(一八五七)八月晦日(三十日)付(二点)
二三 安政四年(一八五七)九月十日付
二四 安政四年(一八五七)九月二十一日付
二五 安政四年(一八五七)十月三日付
二六 安政四年(一八五七)十月八日付
二七 安政四年(一八五七)十月十一日付
二八 安政四年(一八五七)十月頃
二九 安政四年(一八五七)十二月十七日付
三〇 安政五年(一八五八)正月十日付
三一 安政五年(一八五八)二月朔日付
三二 安政五年(一八五八)二月十日付
三三 安政五年(一八五八)二月十一日付
三四 安政五年(一八五八)三月二十一日付
三五 安政五年(一八五八)三月二十八日付
三六 安政五年(一八五八四月十日付
三七 安政五年(一八五八)五月十日付
三八 安政五年(一八五八)五月十二日付
三九 安政五年(一八五八)五月二十四日付
四〇 安政五年(一八五八)六月十四日付
四一 安政五年(一八五八)八月十日付
四二 安政五年(一八五八)九月朔日付
四三 安政五年(一八五八)九月十一日付
四四 安政五年(一八五八)十月十九日付
四五 安政五年(一八五八)十一月朔日付
四六 安政五年(一八五八)十一月二十二日付
四七 安政五年(一八五八)十一月二十二日付
四八 安政六年(一八五九)正月十七日付
四九 安政六年(一八五九)三月十五日付
五〇 安政六年(一八五九)三月二十八日付
五一 安政六年(一八五九)五月三日付
五二 安政六年(一八五九)五月二十六日付
五三 安政六年(一八五九)九月二十日付
五四 安政六年(一八五九)十一月四日付
五五 安政六年(一八五九)十一月二十四日付
五六 安政六年(一八五九)十二月十八日付
五七 安政七年(一八六〇)二月二十六日付
五八 万延元年(一八六〇)六月十日付(二点)
五九 万延元年(一八六〇)六月十九日付
六〇 万延元年(一八六〇)七月九日付
六一 万延元年(一八六〇)十月十五日付
六二 万延元年(一八六〇)十一月六日付
六三 万延元年(一八六〇)十二月八日付
六四 万延二年(一八六一)二月十八日付
六五 文久三年(一八六三)正月二十六日付(封筒入)
六六 文久三年(一八六三)二月二十一日付
六七 文久三年(一八六三)二月二十五日付
六八 文久三年(一八六三)三月八日(二点)
六九 文久三年(一八六三)五月十日付
【解説】箕作秋坪宛緒方洪庵書状をめぐって  
本巻執筆者紹介 
 
日記事項索引 
日記人名索引 

適塾記念会緒方洪庵全集編集委員会()

(故) 芝 哲夫  元大阪大学名誉教授(理学部)
木下タロウ  大阪大学免疫学フロンティア研究センター教授〔編集委員長〕
村田路人  大阪大学大学院文学研究科教授

橋本孝成(ハシモト タカナリ)

1971年大阪府生まれ。2005年大阪大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学。現在大阪大学適塾記念センター招へい研究員、大阪大学非常勤講師。日本近世史専攻。「近世の佐太天満宮と連歌」(『上方文藝研
究』第2 号、2005年)、「二冊の緒方洪庵著『医薬品述語集』― 洪庵の著作と弟子の増補について― 」(『適塾』第43 号、2010 年)、「緒方洪庵訳「人身究理学小解」写本の相違点について」(『適塾』第44 号、2011 年)その他の論文がある。

村田路人(ムラタ ミチヒト)

1955年大阪府生まれ。1981年大阪大学大学院文学研究科博士後期課程中退。現在大阪大学大学院文学研究科教授。博士(文学)。日本近世史専攻。『近世広域支配の研究』(大阪大学出版会、1995年)、『日本史リブレット93 近世の淀川治水』(山川出版社、2009 年)、「安政五年のコレラ流行と医療行政」(『適塾』第43号、2010年)、「幕末期大坂地域と洪庵・適塾― 種痘事業を中心に― 」(『適塾』第48 号、2015 年)その他の著書・論文がある。

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